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テンセグリティ

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(犬のしっぽブログ  Yasushi Kajikawa: https://www.two-pictures.net/tail/より引用) からだには、自分の構造体を維持しようとする意志があります。 それ自体が、それ自体で自律している一つのシステム。 とてつもなく複雑な歯車時計、みたいなイメージ。 テンセグリティ。 その構造、それ自体で自己安定する構造体のこと。 単体なら、特に何も力を発しないもの、つまり、棒とゴム。 しかし、それらを均等に張っていって、緊張が釣り合っている状態になると、 相当な圧力にも耐えられる構造体となります。 つまり、それ自体で存在しうるシステム。 人間も、テンセグリティの一つと考えることができます。 構造体の中に、異なる緊張が存在していて、 全体として、構造としてのつり合いが生まれる。 その力のバランスそのものが、その構造体のかたち。 それぞれの人が、似通いながらも、ちょっとずつ違うこと。 それは、実は、からだの中の力のバランスちょっとずつ違うことと同じことです。 その人が持っている、その人自身の、力のバランス。 それがその人の個性となります。 その人のからだの構造が、その人の全て。 その人のからだの使い方、得意不得意、興味関心、性格。 ベースとなるからだの構造は似通っているので からだの使い方に、適切や、不適切はあります。 しかし、からだの構造の種類だけ、そこには個性があります。 正しく自分のからだを理解して、きちんと使いこなせたとき、 本当の意味で、自分を生き切っているんだと思います。 それって、どういうことか、 とても難しいようなのですが、実はシンプルで からだに「快」があるかどうか。 笑うこと、泣くこと、 歯を食いしばって頑張ること、ダラーっと何もせずに過ごすこと 何が良いか、悪いかというものはなくて 単純に、その時のからだの奥のほうに「快」があるかどうか。 自分のからだに訊ねてみるのがよいと思います。

人間と昆虫

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  生命の進化の話。 昔、まだ生命がミミズみたいな単純な構造をしていた時代。 進化の過程で、 神経を背中に持つ側と、お腹に持つ側に分岐をした。 神経を背中に持つ方は、どんどん進化をして、 僕たち人間もこちら側。 神経をお腹に持つ方も、もちろんどんどん進化をして、 昆虫とかになった。 生命の進化というものに正解なんて存在しないのだけれど、 僕たちは、自分たちがかわいいもんだから、 優秀な頭脳を持った人間が、最も素晴らしい生命だと思ってる。 虫はかわいそうだな、 ちっぽけで、小さな脳みそしか持たなくて、哀れな存在だよな、と。 でも、 世界を見渡すと、やはりなんだかんだで、 昆虫は、世界中で活躍していて、どうひいき目に見ても哀れじゃない。 大きい脳を持つ人間が、 小さい脳を持つ昆虫に勝てないなんて ありえないと思えるのだけれど、 実際勝てない。 脳が大きいほうが、より生命として優れている という議論は、疑ってかかったほうがよくて、 逆に、脳ばかりに頼ってしまうがために、 動物らしく生きていくことが分からなくなっている 僕たちがいて。 何が最も大切なのか、とか 誰が最も優れているか、とか そういう議論はあまり、深みがなくて。 どれだけ自分と違うことを理解できるか、 どれだけ自分と違うものを尊重できるか、 ということに価値があると思う。 自分も尊いけれど、あなたも同じように尊いよね。 そうやって、いろんなものを見られたら、 世界はもう少し、大きくて、楽しいものになる気がします。

think different

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見渡すばかり、便利なものにあふれていて、 "何かいいもの"欲しいなと思うのだけれど、 それが何かって言われると、正直分からない。 カタログギフトをもらって、 素敵な商品の数々にに目移りするのだけれど、 別にどれが欲しいのかって言われると、 特にどれもどうしても欲しい訳ではなくて。 山口周さんは、 「役に立つ価値」と、「意味のある価値」と表現している。 今、こちらのほうがこれだけ便利で役に立ちますよってのが 響かなくなってきている。 だってもう、満たされてしまっているのだもの。 それよりも、 自分がより自分らしく生きていける「意味」。 それをみんなが求めていて。 なんと、その自分らしく生きる意味のためだったら ちょっとばかしの不便はいとわない人だって沢山いる。 クラシックカーとか、古ーい時計とか、暖炉とか、メンテが大変な靴とか。 人にとって、「意味」があると思われること。 それが最大限に大事なこと。 周りを見ながら、同じように動こうとしてもなかなか見えてて来なくて。 やはり、そのためには、人を見ないといけない。 自分自身と向き合うこと。 相手と向き合うこと。

自分のポジションをとること

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  自分の考えを、人に伝えること。 時に勇気のいるもの。 何か、議論となった時に、 ついつい右に倣えで、人の顔色を見てしまったりする。 誰でも馬鹿にされたくないもんで。 でも、やはり、どんなに突拍子もない意見でも 自分で一生懸命考えて出した自分なりの答えは尊いもの。 そのアイデアにもし、 至らなさや、新しい視点を気づきをもらえたら それは恥ずかしくなんかなくて。 とてもありがたいことなのかも。 またもう少し自分の境界線が広がっていくイメージ。 そうやって、どんどん広く物事を考えられるようになっていけばいい。 どこにでも考えるタネは散らばっていて。 それを拾って、少し自分の中で水をやってみる。 言葉にして、伝えてみる。 そんなちょっとした繰り返し、大切だと思います。 自分で考えられること、 自分の意見を持てること、 それは、ちからだと思います。

自由について

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  からだで「自由」を感じるとき、その「自由」は主観的なものです。 ・肩の重荷、目の重さ、腰の違和感、そういうものがなくなったとき ・ずーっと考えていて、モヤモヤが、現実は何も変化しないのに、すっきりしたとき ・こうでなくていけないというものが、実はどうでもよいことだったと分かった時 「自由」を感じるときに共通するからだの状態は、下記のように思います。 ・深い息ができている ・鳩尾の緩みがある ・気が (背骨が) 通っている 「自由」とは、その人の環境を客観的に指すものではなく、 その人自身のからだの状態や、感覚に依拠するように思います。 つまり、環境が何も変化しなくても、「自由」は得られるのではないかと思います。 それは、その人の深い部分 (潜在意識・命)と、その人の意識(顕在意識)に、 矛盾がなくなること、 ととも言い換えられるかと思います。 ・頭や足など、たまっていたものが通ったとき ・自分の思いの凝り固まりや、ねじれが通ったとき ・自分で自分自身に勝手にかけていた思い込みやブレーキが外れたとき 「自由」を感じ、深まっていくものと思います。 「自由」は「自由」か「 自由でない」かという基準で図れるものではないと思います。 死に至るまで、「自由」を深めていけるのではないかと思います。 「自由」は、取り舞く環境の変化により得られるものでなく、 「自由」を深めていくことで、本当に必要なこと、するべきことが見えるようになり、 結果として、取り巻く環境も変化するのではないかと思います。 そして、さらに深い「自由」へ向かう事ができるのではないかと思います。

場をつくる

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しっかりと気が込められた場所には、大きなエネルギーがある 神社や、道場、 ただ単に古い家屋にも、その場の力を感じたりする。 酒蔵だって、昔からの醤油の醸造場だって その場所のエネルギーが源となり、命が循環し、価値が生まれる。 場を作るということ。 - 環境を整えること。自らを整えること。 僕たちがすべきなのは、このことだけなのかもしれない。 スタート台に立って、スタートの合図がなったとき、 結果を見ずとも、もはや結果は決まっていたりする。 どれだけ、その場に、たどり着いたときに、 その場が整っているか、自分に準備ができているか、覚悟ができているか。 それだけ。 始まりの合図との気には、勝負は終わってる。 とても厳しいことのようだけれど、それが本質だと思う。 その場に立ったら、いくら足掻いても無駄ってこと。 その裏にある、覚悟や準備、哲学や、思考、生き方の全て その総動員で、向き合っていかないといけない。 少しずつ少しずつ。毎日の積み重ね。 時間をかけて、作り上げていくこと。 時間をかけないと、成し遂げられないこと。 このスピードや効率の時代に、 時代錯誤のようだけれど、 それでも、やっぱり本質はそういうもんなんだと思います。

ものの見方

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  光を当てると、影ができる 強い光を当てると、そこにはより濃い影ができる それと同じように 何かを強く信じ込んでしまうとき、 そこには、 それを同じくらいの見えなくなる部分が現れる あまねく、照らすようにものごとをみる。 そのときに、見えてくるものは、 見ようと意識して見えてくるものとは異なるということ。 ものを見ることの本質は、ただ視覚的情報を受け入れることは違う。 物事の本質までが見えるようになると 次に何が起こるかも見えるようになる。 はっきりと、より鮮明に、よりシャープに見える事が価値とは限らない。 どれだけ、広く、あまねく、深く、物事を見る事ができかという価値もある。